【中学教員】熊本県内屈指のパワハラ校長と過ごした地獄のような2年間の日々。

【中学教員】熊本県内屈指のパワハラ校長と過ごした地獄のような2年間の日々。

【性別】男性
【年齢】(仕事が大変だった当時)
48歳

【当時の職業】
中学校で数学

【当時の住まい】
妻と子ども2人の計4人

【その仕事はまだ続けてる?もう辞めた?】
今は退職し無職





【就職のきっかけと経緯】
中学生の頃、中村雅俊が先生役で出演していたテレビ番組に感化されて、教育学部を受験し、中学校の教師になった。

【環境と仕事内容】
中学校の数学の教員で、教務主任を担当していた。
中学校の規模は職員が30人ぐらいで、全部で12クラスありました。
以前は県下でも有名な荒れた中学校であったが、私が赴任したときには生徒は落ち着いていました。
保護者は教育に熱心で協力的であつた。
休日は部活動や教務主任の仕事で、ないに等しい状態であった。
また、研究発表もあり大変だった。

【大変だった時期】
教員になって、23年目の48歳の時




【大変だったこと】
兎にも角にも校長が厳しいすぎる。
私は教務主任だったので、特に厳しく指導された。
その校長は教育事務所の指導課長を経験されていた方でとにかく罵声がおおい。
今なら完全にパワハラ上司。
毎朝午前7時30分から校長室で、校長・教頭・教務主任で打ち合わせがある。
ちなみに勤務開始時刻は8時20分。
それは打ち合わせではなく、ほとんど校長からの指導・説教の場である。
朝だけではなく、校長は自分が気に食わないことがあると、すぐ私を校長室に呼びつける。
他の職員に関することでも私が指導される。
朝だけでなく部活動が終わってからもその日1日の反省会があり、教頭と私は叱られていた。
その頃はパワハラという考えもなかったので、我慢するしかなかった。

【大変だった期間】
パワハラ校長がいた2年間




【当時の心境】
学校には遠回りをして通勤していた。
年休をとることも比較的多かったようだ。
救いは数学の授業であった。
生徒が落ち着いて素直だったので授業は楽しかった。
でも一番楽しいかったのは校長が出張で学校にいない時間並びに日。

【職場が大変だった原因】
パワハラ校長のせい。
それ以外考えらない。
生徒も保護者も教頭先生や他の先生方も協力的であり人間的にいい人ばかりだった。




【仕事で良かったこと】
数学の授業です。
生徒もしっかり勉強するし、毎日の授業は盛り上がっていた。
それと給食の時間、その中学校は県下でも給食が美味しいと評判だったので、校長とは別の部屋で食べる給食は、毎日の楽しみであった。
そこで栄養を補給していた。




【特にひどかった最悪の出来事】
その校長とは2年間一緒にいたが、2年目に新米の教頭先生が赴任してきた。
私は教頭先生の仕事の半分をしていたし、教頭先生が仕事でドジを踏むと、なぜか私がその校長から怒鳴られていた。
教頭は自分が校長から指導されるときには、「先生、校長室に一緒に行こう」と誘ってくる。
結局、指導叱られるのは最終てきには私であった。
また、その新米教頭先生は家庭を大事にする先生で、校長よりも早く帰宅されるし、教頭の割には年休をよくとられていた。
その分、私に仕事がまわってくるし、校長からの風当たりもつよくなる。
教頭先生自体は悪い人ではなのだが、教務主任の経験もないので、学校全体が見えていなかったため、私は校長から怒鳴られていた。




【相談した人・助けてくれた人】
当時のパワハラ校長1年目のときの教頭先生、自分をかばってくれたし、愚痴をきいてくれた。
飲みにも連れて行ってくれたし、人間的の素晴らしい教頭先生でした。
休みの日や平日の遅くまで私と一緒に仕事をしてくれた。

【改善のための行動】
とにかく校長はスピードを重視していたので、私も仕事を段取りよくするようになった。
また、その校長は金曜日の放課後は比較的機嫌がよかったので、校長から決済をもらうときは金曜日の放課後にしていた。
意外とすんなり決済がおりた。




【現在の状況と心境の変化】
その校長とは2年間の付き合いであったが、自分が校長になったときに、その校長から指導されたことは結構自分の学校経営に役立っていた。
そのパワハラ校長が定年退職したあとは学校特に職員室の雰囲気が明るくなった。
私も精神的な負担がなくなり、教務主任の仕事を楽しくすることができた。
他の先生からも「笑顔が多くなったね。」と言われた。

【学んだこと】
仕事は1にスピード、2に評価と改善、困った時に頼れるのは最終的には自分一人。
学校の雰囲気は校長次第ということ。



【当時の自分へのアドバイス】
あのパワハラ校長に仕えていた2年間よく頑張りました。
マラソンの有村選手ではないが、自分をほめてあげたい。
当時はかなり精神的には参っていたが、うつ状態や適応障害にならなくてよかった。
してはいけないことは気分次第で仕事はしないということ。
短気は損をすることを学んだ。
当時は気分転換する方法を見つけいなかったので、それが悔やまれる